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肥後金工の精華 西垣 肥後金工西垣勘四郎とその作品 本文を一部ご紹介します
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肥後金工の精華 西垣(本文より )

 西垣勘四郎は、肥後の金工である。
 刀剣の装飾としての金工は、古くは古墳時代から始まっているが、最も発展したのは、武家社会の安定した江戸時代の元禄頃である。その当時、幕府のあった江戸はもとより、各地でもさまざまな金工の流派が活躍していた。この中でも、肥後の金工は現代に通ずる感覚と高い芸術性で他とは一線を画した存在となっている。
 それは、ひとえに利休高弟七哲の一人といわれた細川三斎の指導と影響があったからである。三斎は関が原を生き抜いた戦国武将というだけではなく、室町幕府以来の名家の出身で古今伝授や有職故実の大家であり、当時の一流の文化人でもあった。宮中のいわば大和絵的感覚と桃山文化、それに利休の茶のどれをも理解できる美的感覚を持ち合わせていたわけである。武家の表道具である刀剣を飾る金具について、三斎が特別な興味を持ったのは当然のことである。

 肥後金工には四主流がある。八代に居住して、いちばん古いといわれている平田彦三、その甥の平田甚兵衛(二代からは志水甚五)、弟子の西垣勘四郎、熊本にいた林又七の四人がその始祖である。師弟関係にあったり、同じ地方であったりすると、結果として同じような作風になってしまいがちであるが、肥後金工に限ってはそれぞれが自己を主張して個性豊かなものを残している。これも三斎の指導があったからであると思われる。

西垣勘四郎については、細川家の直系である長岡護美卿は「肥後金工録」の序で、平田彦三、西垣勘四郎、林又七、志水甚五の順で紹介されている。これが当時の熊本での評価だったのであろう。しかし、残されている作品の数が多いことと、長屋重名翁が「肥後金工録」の本文で、同じ年の林又七を「肥後金工第一等」としたことで、軽視されてきたきらいがある。そのせいか、肥後鐔で鑑定の難しい物は往々にして勘四郎とされ、その脇物の混入により実像が曖昧になってしまっている。
 しかし、その何にもとらわれない自由な発想と柔らかい作風は、肥後金工の代表と言っても差し支えないのではないだろうか。制作技法も多種多様で、素材は鉄、真鍮、素銅、山銅に見える四分一などあり、色絵、本象嵌、布目象嵌、消込象嵌、毛彫り、高彫りもある。しかし、その技法に流されることなく、どれをとっても共通した個性を表現していることは驚異的である。       
西垣家は、二代永久が後藤顕乗の門人になり、五代勘左衛門と六代四郎助が江戸の熊谷義之に学んでいる。七代勘左衛門まで鐔を制作したが、個性が明瞭に判別できるのは三代までと永久の弟勘平である。
 
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