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肥後の金工林・神吉各代とその作品 本文を一部ご紹介します
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肥後金工の精華 林・神吉(本文より )

又七の制作時代
 
まず時代であるが、三斎に見出だされて細川家に仕えたとするなら、三斎の没年は正保二年(1645)であるから、又七が三十二歳の年である。肥後三枚と呼ばれる御紋透しの鐔は、三斎公の遺物として、嫡男である忠利の細川本家、三男である興孝の刑部家、実の六男である寄之の八代松井家に残されたと言われている。松井家に最高作が残されたのは、三斎の晩年は八代城外に隠居していたことに関係があると思われる。今も城跡の堀を隔てた北隣に三斎の屋敷跡が松井神社として残り、庭は当時の面影を残している。また、三斎公手植の梅が「臥龍梅」として保存されている。
 又七は、肥後四主流の一人である西垣勘四郎と同年であり、制作年代は、桃山的気風が残る寛永末年(1635頃)から元禄十二年(1699)までと考えられる。
この間の世の中の動きをみてみると、何と言っても細川藩も直接に関わった島原の乱であり、キリスト教の禁令と鎖国である。慶安の御触書や、林羅山、熊沢蕃山、中江藤樹らが出て各藩が儒学を奨励したのもこの頃である。芸術の世界では俵屋宗達、狩野探幽、土佐光起、菱川師宣、有田焼の酒井田柿右衛門や友禅染の宮崎友禅がいて、井原西鶴、松尾芭蕉もこの頃である。剣聖といわれた宮本武蔵とは、武蔵が細川家に抱えられた寛永十七年(1640)から、没する正保二年(1645)までは同じ熊本である。また、金工では後藤家では程乗から廉乗の時代であり、町彫金工はまだ活発ではなかった頃である。刀工では寛永から寛文新刀の時代で大阪には和泉守国貞、井上真改、津田越前守助広、江戸では長曾禰虎徹などが活躍している。

又七の個性

又七がもっとも影響を受けたのは、細川三斎であろう。
 一般的に、金工は技術や作風を継承していくものであり、苗字や名乗りも師からもらう場合が多い。しかし、三斎の存命中の肥後金工は特殊である。平田彦三の弟子である仁兵衛も勘四郎も技術はともかく作風はまったく違い、苗字も名乗りもまったく異なっている。又七もこれら三人とは別の仕事をしている。この四つの流派が三斎の死後、先祖の作風を墨守して衰退していったことをみても、三斎が個性を尊重して、それを作品に生かすよう指導したことは明らかである。
 前にも述べたように、作品が作者の全人格の表れであるかぎり、人それぞれ、顔が違うように、生き方、感じ方、個性があるわけある。おのずと作者の数だけの個性豊かな作品が存在するはずであるが、実際にはどうであろうか。金工の世界では、柳川直光と直春、菊岡光行と光政と光利、大森英秀と英満、石黒政常と政美、後藤一乗と橋本一至など、師匠と弟子の鑑別がつかない場合が普通である。

 
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